次に仁科関夫と小学2年まで机を並べた黒石哲夫さん宅に伺った。黒石さんは三谷さんの3つ下で旧制徳山中学の同窓生。
私が急に伺ったため何もおかまいできずと言いながらも扇風機のスイッチを入れカップ入りアイスクリームを出して下さった。
86才のおじいさん一人で暮らしておられる。居宅は旧海軍御用達金久旅館があった海商通り突き当たり高札場から50メートルほど奥に入ったところだ。
終戦後、勤務の関係で地方を転々とされていたため昔の写真は全くお持ちではないとのこと。
写真がご趣味のようでご自分の作品を今流行のデジタルフォトフレームで再生し楽しんでおられる。
正直ここでほっと一息つくことが出来た。
午後5時過ぎ、本日最後の訪問先「かな久」旅館に女将今本さんを訪ねた。
訪問の主旨を述べると、まあお上がりと食堂に通された。夕方でお客さんの接待がお忙しいので余り長時間はご迷惑になると思い御礼を述べた後、戦前金久には仁科関夫や予備学生で光回天基地にいた神津直次さん達特攻隊員がちょくちょく泊まったり食事をしに来たことなどお教えした。
かな久は先代が亡くなられ現在息子さんが跡を継いでおられる。先代がご存命ならさぞ戦前の貴重な証言が聞かれただろうに・・・。
女将さんは地元の名士にかかわらず全く化粧気がなく地味なコスチューム(一見作務衣のよう)で派手さがない。髪を挙げ、化粧し、帯でも締めれば目鼻立ちがはっきりしているので、きっとすごい美人女将に変身されるであろうと私は想像を逞しくする。
私は子供の頃からそんな女性(ひと)を沢山見てきている(実家が大阪天満の粋な町。近くに曾根崎・北野新地がある)。
ようやく太陽が西に傾き室積の浜が赤く染まる頃かな久を辞した。女将さんが駐車場まで出てきて見送って下さった。
8月30日、午前10時の大津島巡航フエリーで大津島へ渡る。徳山港出航5分前、白石勝子さんが駆けつける。
私は白石さんにウルシー環礁の写真を頂き拙著に掲載したため本を謹呈送付し御礼を言うつもりが彼女の方から大津島まで出向いて下さった。
一緒に大津島回天記念館に伺って松本館長と情報交換しましょうとの事である。
彼女とは初対面であるが今まで幾度かメールでやり取りしていて今日初めてお会いしたような気がしない。
徳山港から馬島港までの40数分一気に話に花が咲いた。馬島港到着から回天記念館まで仲よく並んで回天坂を登っていく。
私は仁科関夫少佐のメモリアルストーンに献水。彼女は橋口寛大尉のそれに献水。その後私は平和の鐘を一回勢いよくついた。蝉の声と共に鐘の音が隠隠ろうろうと夏の鼓海に漂っていく。
回天記念館の玄関をくぐると松本館長がおられた。
まだ時間が早く来館者が少ないので事務所で改めて御挨拶し拙著ご協力の御礼を述べて謹呈させて頂いた。
一瞬本を見て驚かれた。その装丁の立派さに・・・・。中身は別として・・・。
来館者の合間をぬって3人はインスタントコーヒーをすすりながら、お互い共通の楽しい会話が弾んだ。
私が御礼の旅に出る直前、和田稔(「わだつみのこえ消えることなく」作者)の実妹西原若菜さんから和田稔がモデルの回天に散った学徒兵の生涯描いたフラメンコダンス「群青の海に祈る」(篠田レイ子プロデュース)のプログラムをお送りいただいていたので松本館長にお見せしたところ、以前そのことで何やら西原さんから松本館長に問い合わせがあったとかで、偶然そのことにまつわる資料を私が松本さんに届けたことになる(このフラメンコダンスは平成6年10月16日山口県美東町景清洞にてファニート篠田さん等によって演じられた)。何という巡り合わせだろうか。
私にとって大変嬉しかったのは、そのプログラムの中に私が是非とも見たかった写真(和田稔がイ−363潜で出撃する直前、沼津の実家に帰省し末の妹若菜さんと昭和20年5月18日記念写真をとった。若菜さん11才)が載せられていた。
若菜さんが兄の肩に手を回し背中に甘えるように覆い被さっている微笑ましい写真。
拙著に載せたかった一葉である。和田稔の最後の幸せな一刻(ひととき)。二人とも心から喜びが沸き上がっているような素晴らしい写真である(平成21年9月1日、西原さんに御礼の電話を入れたときこの写真のことをお聞きした。写真屋さんが若菜さんにこのポーズをとるように言ったとのこと)。
昼食を3人で遠足に行ったような気分で事務所でとった。
この時、西原若菜さんからお送りいただいた和田家伝来の梅干しを3人同時に口をすぼめて頂戴した。
今回の旅、最後の訪問先は周南市養浩館館長高松工さんである。いつもの時間高松さんは養浩館におられるはずであったが、本日所用で自宅に帰られたとのこと。白石さんと二人で馬島公民館そばの高松さん宅を訪ねた。
今年の終戦記念番組NHKテレビ「海軍400時間 録音証言」に高松さんも出演され軍令部が何とか・・・と吠えておられる。いつも元気が良い。今日もお元気だ。高松さんと白石さんと並んで記念撮影する。
じりじり照りつける太陽を背に私と白石さんはまたテクテクと回天坂を登っていき回天記念館に戻った。
途中私は彼女に「 ウルシー環礁でミシシネワを撃沈した回天は誰のものか?」について訪ねた。彼女の見解は専門家の意見から判断してそれは仁科中尉に間違いないという。
明確な証拠があるのか?と私は更にしつこく迫った。彼女はそれなら奥本君に直接聞いてみたら・・・と投げた。
奥本君とは呉のフエリーの船長をしながらお若いながら潜水艦、甲標的、人間魚雷回天などについて独自で研究し、その方面でいささかマニァックな著書を出版されている方で白石さんとはご懇意とのこと。
彼のホームページには菊水隊ウルシー環礁泊地攻撃の一考察がある。しかし判りづらい。
私個人としてさらなる研究が必要と感じる。ウルシー環礁の英語版海図が40ドルで売っているとのこと。白石さんに購入をお願いした。
午後4時30分、記念館閉館。戸締まりして館長、白石、私の3人は4時40分発徳山港行きの船に飛び乗った。
徳山港で皆さんと別れ、徳山東インターから山陽道に入り夕陽を背に帰路についた。
片道約470キロ、往復で950キロほどをこの二日ほどで一人で走りきった。
私のUSアコードの走行距離は累積走行距離16万3000キロを示していた。
肉体的な疲労感もあるが、お世話になった方達に一人ひとりお会いし、御礼を述べることが出来、今は肩の荷が少しおりたような清々しい気分である。
仁科関夫の墓前で拙著出版の報告をしたときのように・・・。
終わり |