「春夏秋冬信州諏訪」  ── 思いつくままブラブラ歩き ── 2008.10
  一昨年あたりから、私は月に1週間ほど妻の実家のある信州諏訪に滞在している。実家の家業(寒天製造販売業)を手伝う合間、気が向くままあちらこちらと歩き回っている。諏訪湖を中心に四方を山に囲まれた小さな諏訪盆地に似合わず、ここは歴史やそのほか自然科学的にもあっと驚くことに満ちあふれている。
厳冬の寒天干場
ところてんが寒天に
出荷前の赤寒天
ここは標高750メートルほどのところ。地形的には中央構造線(九州から関東まで1000キロも続く日本で最大級の断層)と糸魚川−静岡構造線(日本の本州中央部ほぼ南北に横切る大断層)が丁度この辺りで交錯し何千万年の時を経て諏訪湖をつくり、またこの複雑な地形が素晴らしい景観を醸し出している。

夏は避暑地として最適な場所だが冬となると雪の少ない分、乾燥した氷点下の地獄のような厳寒の地に豹変する。この天然の冷凍庫を逆手に取ってこの辺り寒天製造(自然の気候を利用した天然製法)が盛んである。

つれづれなるままに今ままで見聞きした事柄の一部を書き連ねてみたい。  
 
有賀峠入り口にて
法性神社レリーフ
見宗寺境内
曽根湖底遺跡のあたり
以前大和ミュージアム(広島県呉市)を訪れた時、戦艦大和最後の艦長が有賀幸作(あるが こうさく)、長野県出身とあった。
一瞬、この方は信州諏訪出身でないかと閃いた。なぜなら諏訪から上伊那に抜ける峠に『有賀峠=あるがとうげ』と言う峠がある。この地方では『ありが』とは呼ばない。調べてみると案の定この地方の人であった。しかも旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)出身ということだ。

早速、峠を越えて彼が葬られている辰野町見宗寺にお参りに行ってみた。彼の立派な黒御影の大名墓には彼の功績を称える元海軍中将草加龍之介氏(旧天王寺中、海兵卒)の碑文が掘られていた。私はそれを汗をかきかき不自然な体勢でメモに書き写したことを憶えている。

ここから車で5分ほどの所に彼を祀った法性神社がある。境内には土俵とどでかいケヤキの大木が今でもずーうと彼を見守っている。神社正面入り口右側に米軍艦上攻撃機と死闘を繰り広げる戦艦大和と有賀艦長のレリーフがある。下校途中の中学生数名が石段の木陰でたむろしゲームに興じていた。

先日諏訪市博物館に立ち寄って諏訪湖の湖底に沈む『曽根遺跡』の特別展を見た。
この遺跡は明治41年に発見された。この遺跡(旧石器時代〜縄文初期:約1万年前)を巡って考古学者がいろいろな見解を述べている。水上生活説、地滑り説、地殻変動説などである。諏訪湖は地殻の複雑なところで現在大方は地殻変動地盤沈下説が有力である。

諏訪湖畔のホテル街から沖合300メートル辺りに沈んでいる。ここらは黒曜石製の鏃(やじり)が多数出土し、何故か鏃の片方の足が折られいびつなかたちになっている。

これとは別に昭和61年、菱形になった湖底の窪地が発見され、これが武田信玄の水中墓ではないかと一時色めき立ったが、いつの間にかその話題は立ち枯れてしまった。
武田信玄・勝頼を中心に武田家の盛衰を記した『甲陽軍鑑』に依れば、諏訪湖の南側小坂観音の沖合に信玄の遺言により沈められた石の棺があると記されている。諏訪湖に舟を浮かべ自分自身で調べてみたい気がする。湖底に沈む遺跡や遺物は私にいつも素晴らしいロマンを与えてくれる。
駒嶽遭難之碑 (箕輪中部小学校内)
歩一歩の碑(箕輪中学内)
新田次郎家族写真(諏訪市図書館展示物)
安国禅寺遠望
安国禅寺付近から八ヶ岳を見る
昔から新田次郎という作家のことを知ってはいたがあまり興味を持っていなかった。ところが諏訪の本屋で『聖職の碑』を手に入れそれを読んで俄然興味が湧いてきた。『国家の品格』の著者、藤原正彦さんが父新田次郎のことを書いているのも私をそうさせた。

藤原寛人(新田次郎)は戦争末期に一家を連れ満州国の気象台に赴任する。当時内地勤務から外地へ赴任すれば出世出来ると言われていた。

新田次郎もそれで満州に渡る。私の父も警察官(旧制中学卒)で同じような餌につられて満州に渡る。藤原正彦さんは、終戦時、新京から母藤原ていに連れられ1年以上かかってやっと命からがら祖国の土を踏む。私は幸運なことに昭和22年コロ島から一家3人揃って引き揚げることが出来た。

警察官の身分でソ連軍に抑留されることなく無事帰国できたのは、一家が引き揚げ港に近い錦州市に住んでいたこと、父は満州国国警防空科長として防空通信関連の責任者であり、警備、馬賊掃討、特高等のような中国人に憎まれることが比較的少ない仕事をしていたからだ。父の上司であった方が昭和36年頃やっと帰国された。

諏訪市図書館に新田次郎記念室が常設され新田次郎の書斎が復元されている。彼の生家は諏訪市角間新田にあり、ここから諏訪の町や諏訪湖の向こうに沈んで行く夕陽が眺められる。

新田次郎の本名は藤原寛人(ひろと)。この人も旧制諏訪中学出身。平成20年の夏、『聖職の碑』のモデルとなった学校(箕輪中部小学校/箕輪中学校)を訪ねた。その学校は天竜川の河岸段丘の上に立っていた。

杖突峠(海抜1200メートル程)の登り口に安国禅寺がある。この峠を通り諏訪から高遠、伊那に抜ける。すぐ後ろに干沢城がある。この寺は全国に建立された66ヶ所の安国寺の一つで1345年頃建られた。ところが1542年(天文11年9月25日)、諏訪に侵攻した武田軍と高遠頼継が領土争いのためこの寺の門前、宮川橋付近で戦う(現在、この橋から200メートル程下流で御柱祭りの川越しの神事が行われる)。

結果、高遠頼継は負け多くの屍を残したまま高遠、伊那に遁走する。中央構造線が伊那−高遠−杖突峠の下辺りまで来て(諏訪大社前宮付近)、糸魚川−静岡構造線とぶつかりそれを分断している。まさにここは日本列島の『へそ』なのだ。このへその地下では巨大なエネルギーがぶつかり合い不気味にドクロを巻いている。いつその均衡が破れるか予測できない。

 実に奇妙なことに、昭和の御代にこの辺りで生まれた長男ばかりが不慮の事故や病魔に冒され若くして亡くなっている。その中には家内の身内やご近所の長男も含まれる。その数たるや一人や二人ではない。小さな村でこんなにも・・・と、驚くばかりだ。何か因縁めいたものがあるのだろうか?それとも単なる偶然だろうか?

=中央構造線板山露頭案内= 
川越し付近
濱大尉顔写真
  初体験稲刈り
さ来年(平成22年)、7年に1度の大祭、諏訪大社上社の御柱祭りが行われる。山から切り倒された大木(神木)が御柱街道を約20キロ、多くの氏子に引かれここ安国禅寺前の宮川にさしかかる。ここで神木は川に入って清められ諏訪大社へ向け再び曳行される。この場所が『川越し』の神事が行われる神聖な場所だ。
    ※御柱祭りは、「2004年 04.4 御柱川越し」を参照ください。

宮川と併行し中央自動車が走りその後ろに雄大な八ヶ岳がでんと構えている。かん高い木遣りの声や祭りの喧噪、勇ましい消防団の突撃ラッパや太鼓の音が脳裏をかすめる。諏訪の血が流れていないよそ者の私も何となく心がウキウキしてくる。

今年の3月ごろ、諏訪神戸神社の境内に安置してある魚雷に関し、知り合いの方と話している時、『5.15事件』に関与したとされる海軍大尉『濱 勇治』の名前が出てきた。

5.15事件は、昭和7年(1932)5月15日、時の首相犬養毅が三上卓海軍中尉等海軍士官にピストルで射殺されたテロ事件である。何となく気になって関連書物を捜したところ偶然にも『5.15事件−−濱大尉の思想と行動』著者:五味幸男/濱廣匡:鳥影社発行が手に入った。

濱大尉が居住していた家が家内の実家の近くにまだ残っている。5人の子供を残し、終戦の年の3月16日、39才で病死している。濱も旧制諏訪中学出身の秀才であった。文中(175頁)『秀才と謳われ輝かしい将来を期待されたのに、血盟団事件、5.15事件の犠牲となりながら、最後まで昭和維新を念願とした。まさに「捨て石」となった国士濱勇治の生涯であった』と記されている。

中河原にある彼の眠る墓は、南向きに建てられ大きな石塔の間に挟まりながらも燦々と太陽の光を浴びていた。私には濱大尉は短歌に長けた温厚で心優しい人であったような気がしてならない。

この他、高島城本丸の庭に、昭和10年、陸軍皇道派相沢中佐によって斬殺された軍務局長永田鉄山中将の胸像がある。この方も諏訪出身の秀才である(諏訪中卒ではないが)。徐々に軍国主義に進みつつある時代に国家を揺るがす大事件に関わる人物がこの狭い諏訪湖の淵から生まれているのも興味深い。

−−−終わり−−−