平成17年度−青春18キップ 歴史を巡るオッサンの二人旅 2005.8
暑い夏真っ盛り。空には入道雲、庭の百日紅(さるすべり)が可愛らしいピンクの花びらをたわわに咲かせ、蝉がせわしく鳴いている。昨年も同時期、中路さんと山口県徳山、広島県江田島へと青春18キップして来た。いつものように旅の計画・宿の手当は私が、汽車の時刻表で乗り継ぎ等の調整は中路さんがする。そういう暗黙の約束事になっている。それがお互いの得意分野なのだ。 

  今年も歴史を追ってひたすら西へ。高槻から普通電車を何度も何度も乗り継いで山口県へ。山口県北部の萩から広島県呉へとゆっくりと・・・、と言っても、とてもスリルのある(乗り継ぎ時間が2〜3分しかなく、電車が遅れれば計画は最初から頓挫する)2泊3日の旅であった。

8月9日、5時40分姫路行き新快速に飛び乗る。姫路から岡山へ。次に岡山から新山口経由厚狭(あさ)へ。瀬戸内の明るい空気と景色を一杯車内に吸い込みながら列車は快走する。厚狭で美祢(みね)線に乗り換え長門へ。たった一両のジーゼル機関車があえぎなが山間の野山を駆け抜けていく。女子高生らが運転席横にベッタリ座り込んで楽しげに話している。実にのどかな情景が揺れている。途中下車して未だ日差しの厳しい長門漁港で潮の香りを嗅ぐ。ちょっと魚臭い港だ。ぴょんぴょん魚が跳ねているのが見える。鳶がそれを狙っている。少し足のばして童謡作家金子みすずの故郷仙崎で6分間下車。残念ながら町の散策は時間の都合で出来ず。駅前でみすずの代表作「魚はかわいそう・・・・」の碑文を読んですぐ駅に戻る。長門から東萩駅まで汽車は夕闇迫る山陰の海をバックにゆっくりと走る。海が見えたかと思うとすぐ山に入ってしまう。私の対面に紺の襟に純白の3本線が入ったセーラー服がよく似合う女学生がずっと下を向いて本を読んでいる。時折彼女の背を夕陽に染まった島々が走り去っていく。本日の目的地東萩駅に着いた頃すっかり陽は落ち、薄墨に覆われてぺったりした萩の城下町が松本川の向こうに横たわっていた。   
なんと延べ約12時間も汽車に揺られていく。席は空いているのでいつも中路さんと同席だ。ほとんど彼と喋っている。
8月9日、丁度参議院で郵政民営化法案が否決され小泉総理が国会解散を決定した時だ。中路さんは現在或る国会議員をボランティアでサポートしている。緊急招集が掛かり本来彼はそちらに駆けつけねばならない。
それを断って私との旅行だ。そんな事情で大半は政治と選挙の話。
次に彼の持論『男子と女子はいかなる場合も同等である』についての議論である。「女子は男子といかなる場合も同等であり、女子の権利義務を全面的に容認する代わりどんな場合も『女』を武器とした言い訳や泣き言を言うな!!(怒)」と言うのがその主旨である。

ある程度容認できるものの100%賛同することは出来ない。
私はわたしで、「昭和20年終戦後に生まれた人と、昭和19年生まれの私のように母の背で匪賊、爆弾、弾丸の間を逃げまどった者とは戦争やアメリカ、ソビエト、中国、戦艦大和などに対する考えが違う」と主張する。
お互い議論がつきると外の景色に目を移す。
沿線のあちこちに強い日差しと入道雲、瀬戸内の輝く海が否応なしに目に飛び込んでくる。山陽本線では退屈なのか児童が車内のつり革にぶら下がって騒いでいる。
8月10日、目覚めてホテルの窓から外を見る。松本川の左遠方に形の良い指月山が見える。それ以外さほど大きな建物は見えない。今日はホテルのレンタサイクルで萩城下を走り回る計画だ。
 萩は阿武川が橋本川と松本川の大河に分かれ、それに下方を挟まれるような形で、また上部を日本海の菊ヶ浜で閉ざされた三角おむすびのような地形である。おむすびの左角に指月山がデンと座りおむすびを睥睨している。この指月山一帯に萩城がある。
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 朝7時40分、活動開始。指月山を目標に萩城下を当てすっぽに走る。何処をふり向いても、どこで立ち止まっても必ずそこに史跡がある。都会の喧噪もけばけばしい看板もない。なんとここには今流行(はやり)の100均がない。150年前にタイムスリップしたような町、それが萩であり私たちにとって実に新鮮であった。
東から西へ松本川を渡り、城に近づくほど下級武士、上級武士、家老屋敷が碁盤の目のように整然と並んでいる。吉田松陰や高杉晋作が一時繋がれていた野山獄の跡は早朝から近所の方の奉仕できれいに掃き清められていた。所々に『鍵曲(かいまがり)』と呼ぶわざと道をぐいちにさせたところがある。敵が城下に攻め入ったときの戦術的防衛施設である。  
萩は明治維新、新しい日本を目指し活躍した有名人を多く輩出した城下町だ。
何と言ってもまずは吉田松陰、そして桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、井上馨などである。次に明治以降の日本の政治・軍事を掌握する山県有朋、田中義一ら蒼々たる面々が続く。
後年総理大臣にもなった陸軍大将田中義一は萩藩士の三男とされるが、田中家は藩主の御六尺(かごかき)と碑文にある。明治維新とはなんという時代だつたのか、明治という激動争乱の時代が彼らを大きく飛躍させるチャンスを与えたことに大きな驚きとロマンを感じないわけにはいかない。

 文久3年(1863年)8.15の政変や、翌年の蛤御門の変、また長州藩内の政権闘争などから多くの有為の青年が落命している。
明治維新まで生き残った者、日の目を見ず亡くなった無念の武士達の居宅跡がそこかしこにある。それらを無遠慮に片っ端から自転車で訪ね歩く。現在、上級武士の長屋門、白壁が剥がれ中身の瓦と赤土のむき出しになった長い土塀が萩のトレードマークのようになっている。
菊が浜に浮かぶ美しい萩城や市内観光の後、最期に吉田松陰の松下村塾、伊藤博文別邸を見学のあと、名残惜しく萩から4時過ぎの列車で徳山に向かった。

8月11日、少し早めに汽車に乗り呉に向かう。11時過ぎに呉に着く。
いよいよ待望の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)訪問の時だ。
夏の日差しがガンガン身体に突き刺さる。JR呉駅から海に向かってショッピングセンターイズミの中を通り抜けるとすぐ前にガラス張りの斬新な建物がある。
今年4月にオープンしたばかりだ。建物の前に柱島から引き揚げた戦艦陸奥の40センチ主砲、スクリュー、舵などが屋外展示されている。かなりの大きさだが建物の前ではさほどデカク感じない。
館内にはいると夏休み真っ最中、家族連れの子供達でわんさかしている。正面の壁に本年12月に封切られる『男たちの大和YAMATO』の大きなポスターが貼ってある。配属水兵達が大和の甲板で衛兵に申告しているシーンだ。ここでまず記念写真。

改札をくぐると当ミュージアム一番の目玉、戦艦大和の1/10模型(26.3メートル)がデンと鎮座している。実物を忠実に再現しその姿は圧巻である。
感激でどこから見て行くのが良いのかわからずひとまず巨大模型の周りを一周する。船首の菊の御紋章、バルバスバウのなめらかな形、船尾の4つのスクリュー、艦橋上部戦闘指揮所の大型測距儀、46センチ主砲、各砲塔に設置された測距儀、高角砲、シールドなしの対空機銃など実に精密に再現されている。
尾道の向島日立造船に大和の巨大なロケセツトがあり公開されているという。鉄ではなくベニヤ板の張りぼてらしい。主砲も丸太で実物より何メータか短いと、尾道からわざわざ来られているボランテアの方が話してくれた。

(戦艦大和 公試排水量6万9100トン.46センチ主砲9門.現在貨幣価値で2600億円かかった)
各部屋ごとに大和にまつわること、日本帝国海軍にまつわることなどパネルで説明されている。
入館者が多すぎて順を追って見ていけない。空いているコーナーを見つけてはそちらへと、ハリネズミのように館内を走り回る。また日を改めて、尾道のロケ現場と一緒に再度落ち着いて見に来ようと思う。
隣室の展示室では、人間魚雷『回天』の試作機(○六金物)、特殊潜航艇『海龍』、『零戦』のレプリカ(又は実物)などが展示されている。
私にとって収穫は、回天に取り付けられていた1メートル足らずの潜望鏡(回天の場合特眼鏡と呼ぶ)の実物を覗くことが出来た事である。鮮明とは言えないが60数年を経てもまだ十分その用を果たしている。真っ暗で狭小な『回天』操縦席で仁科関夫が蝉のようにその潜望鏡に取り付いている姿が想像されて悲しい。

 かってハワイ真珠湾のボーフィン潜水博物館を見学した時、長さ10メートルはあろうかと思われる潜望鏡を覗いたことがある。
それはフォード島に係留されている戦艦ミズーリ号に照準が合っており視野は明るく幾分倍率が掛かっていた記憶がある。この特眼鏡の視野は狭くレンズを通す画像そのものも何か貧弱に見えた。
大和の情報と共に、はからずも人間魚雷『回天』の潜望鏡を覗くことが出来て今回も収穫大なり。館内のエレベーターでみず知らずの男性が私に「素晴らしいですね・・・」と不意に話しかけて来た。私だけでなく日本人の皆がそう思っているのだ。

いつもの事ながら後ろ髪引かれる想いで帰途につく。
明日も仕事が待っている。今回旅の最期にとってもビツグなおまけが付いた。
呉線での車中、中路さんが大和ミュージアムのパンフレットを広げていると、「大和ミュージアム行って来られたのですか・・・? 大和が沖縄に向け特攻出撃する時、私の先輩達がまだ若いからといって船を降ろされたのですよ・・」と突然年輩の男性が声を掛けてきた。
私は咄嗟に「失礼ですがあなたは海兵出身では・・・」と二人の会話に割り込んだ。
「そうです。海兵76期101分隊です。終戦時江田島の2号でした。
先輩は74期の少尉候補生です」とはずんだ声で答えられた。お名前は黒崎昭二さんと言われる。その方は広島県旧制忠海中学を出て海兵に入校された。この学校から池田勇人第58代首相が出ている(中路談)。我々はこの時から岡山駅まで間断なく黒崎さんへ質問し続けた。

  中路さんと私は昨年室積での郷土史家三谷さん、大津島での養浩館館長高松さんの時のように入れ替わり立ち替わり機関銃のように質問を浴びせた。
さぞ黒崎さんにはご迷惑だったことでしょう。ここでお詫びする次第です。お話の中でしきりにインターネットのことを話されていたので後日試しにお名前を検索すると『習えば遠し』の題名でホームページを持っておられた。
定年後独学でパソコンを勉強され月1回のペースで随筆を書かれている。終戦のこと、兵学校のこと、教育のこと、小説のことなど実に幅広く既に3百何話に達している。他に禅にも関心を持たれ文章は高邁で私どもには一見近づきがたい。ご迷惑かも知れないが今度私の方からインターネットで彼にアタックして見ようと思う。またお会いしてみたいお方だ。今回の旅の思わぬ収穫であった。
                                          おわり